特別の餞別

久美子、麗奈、秀一「幹部ノート」そのはじまり―

「夏紀、少し時間あるかな」
 あすかにそう声を掛けられたのは全国大会も終わり、三年生部員の引退セレモニーを翌日に控えた放課後のことだ。夏紀の教室から音楽室に行くまでの廊下にあすかは立っていた。正式な引退は明日とはいえ大会が終われば三年生が音楽室に来ることはほぼない。大半の生徒が進学する北宇治では三年生のほとんどが受験生である。全国大会まで駒を進めた吹奏楽部は、他の部活と比べて引退が遅い。受験生となった三年生たちは、その遅れを取り戻すように勉強に追われ、部室に顔を出す暇などないのだろう。
 ただ、今目の前にいる先輩に関して言えば余裕がない、などということはないだろうなと夏紀は思う。
「ええ、大丈夫ですよ。なんだかお久しぶりですね」 
 夏紀が近づきそう答えると、あすかは小さく頷いてから背を向けて歩き出した。ついてこい、という意味らしい。夏紀が横に並ぶと、あすかは口を開いた。
「そこは『時間が無いのは受験生の先輩の方じゃないんですか』って心配するところでしょ」
「私なんかがあすか先輩の勉強を心配するのは失礼ですよ」
「これでも一応は受験生なのよ!受験生!もっと労わってくれてもよろしくてよ」
「どうやって労われって言うんですか……」
 そんな相変わらずのやりとりを交わしながら二人が向かうのは音楽室とは真逆の方向である。
「それで、どういったお話ですか」
「それはもちろん私達のこれからの話よ」
「いや、茶化さないでくださいよ」
「茶化してないよ?至って真剣!」
 ようやくあすかが足を止めたのは校舎裏、ゴミ捨て場のところだった。
「私達の、というより夏紀達のこれからの話かな」
 冗談めいた言い方にしては、あすかは笑っていなかった。
「言い方と表情がまったくリンクしていないんですけど……」
 夏紀の言葉を聞いてようやくあすかは少しだけ笑みを浮かべた。といってもそれは悪魔的な、という形容詞がつくものではあったが。
「北宇治吹奏楽部の次期幹部のお話です」
「は、はぁ」
「えーリアクション薄くない?」
「まぁ、あすか先輩が私に用があるとしたらそういったお話かと」
 先輩の代わりに関西大会で演奏する話に比べたら驚くようなことではないですよ、という言葉を夏紀は呑み込む。あの出来事に比べれば大抵のことなら動じない自信が彼女にはあった。そもそも受験で忙しいはずの三年生がわざわざ部活の後輩に話をしに来た時点で概ね察しはつく。
「ちぇー、つまんないなぁ……」
「面白くない後輩ですいませんね」
「ま、いーの、いーの。話はここからだからね」
 そう言うとあすかは眼鏡を指で押し上げた。レンズの角度が僅かに変わり反射する光で夏紀からは彼女の双眸は見えなくなる。
「夏紀を北宇治高校吹奏楽部副部長に任命します」
「……副部長、ですか」
「もー!反応!相変わらず薄いわよ副部長!ち・な・み・に!部長さんは」
 ずずい、とあすかが顔をせり出してきたため、夏紀は思わずのけ反る。
「後藤ですか」
「ブブー違います。あいつはリーダーのポジションだと潰れちゃう」
「梨子……でもないですよね」
「理由は後藤に同じね」
「それじゃあ、希美……?」
「ノンノン」
「かべっち……?」
「うーん、惜しいとも言えるかな?」
 ここまでの会話で新部長の予想をする夏紀の頭の中では、一瞬浮かんだもののすぐに否定したリボンをつけている「アイツ」の存在がどんどんと増してきた。残念ながらそいつ以外の候補が出てこなくなったため、否定してもらえることに一縷の望みをかけて夏紀はその名前を口にする。
「……優子、ですか」
「ピンポーン!大正解ー!」
 パチパチと手を叩いているあすかを前にして思わず夏紀はため息をつく。
「おやおやご不満?」
「いえ、そういうわけでは。で、アイツには言ったんですか」
「まだだよ?夏紀に話をしてから言おうと思って。あ!あと優子にはあんたが副部長ってことは絶対に言わないようにね」
「どうしてですか」
「面白くないじゃん」
 あすかは子供のような理由を悪びれもせず言ってのけた。
「また、そういうことを……」
 今さら夏紀があすかのこうした態度に腹を立てることはないが、こうも目の前で面白がられると流石に辟易してしまう。
「それにしてもどうして私とアイツなんですか」
「あー、それ聞いちゃうんだ?」
「まぁ、気になりますからね」
「うーん、消去法だね」
「消去法?」
「そう。あの子の情熱はリーダーとしてなら最高の燃料になるんだけど、それ以外だと部の揉め事の火種を大きくする燃料になる可能性があるからね」
 なかなかの物言いではあるが、あすかの言うことは夏紀も理解できる。
「だからあの子は部長以外は無理。で、彼女の火力の調整役は夏紀!あんたしかいない!ってわけ」
 指で銃を撃つ仕草をしながらウィンクをするあすかを、夏紀は冷ややかな目で見つめた。
「まぁまぁ、そう怒りなさんな」
「いえ、怒ってはいませんが……」
「ほんとに?まぁ面白がるのはここまでとして、新副部長様には私からわずかばかりの餞別を差し上げましょう」
 そう言ってあすかは鞄から鮮やかなオレンジ色の表紙のノートを取り出して夏紀に手渡した。
「……なんですか、これ」
「ノートだよ?」
「それくらい私にも分かります」
「ただのノートじゃありませんぜお嬢さん!こいつぁ大変貴重なノートでさぁ!」
 再び夏紀が冷めた視線を送っていることに気づいたあすかは咳ばらいをする。
「幹部の仕事内容をまとめた引き継ぎノート。晴香と香織が書いてくれたの」
 夏紀がノートをパラパラとめくると細かく部の業務内容が記されている。「すごいですね」と思わず感嘆の声を上げる。
「でもこれは優子に渡したほうがいいんじゃないですか」
「ダメダメ!あの子に香織が書いたノートだ、なんて言って渡したら神棚に飾って使わない可能性があるでしょ!」
「冗談に聞こえないのが怖いですね」
 確かに優子ならやりかねない。彼女が神棚にノートを飾って毎日拝んでいる姿を思い浮かべて夏紀が吹き出しそうになるのをこらえていると、あすかが続けた。
「それに庶務的な仕事は基本は夏紀がすることになると思うからね」
 確かに優子が前に出るのならば自分は裏方に徹することになるだろう。夏紀はあすかの言葉に頷いた。
「あと、そのノートにはもう一つ重要な役割がある」
 あすかはピンと右手の人差し指を立てた。
「役割?」
「部長と副部長のコミュニケーションツール」
「は、はぁ」
 どういう意味か分からない。夏紀は首を傾げる。
「是非、愛のラブラブ交換日記としてお使いくださいな」
「えー……それ、絶対からかってますよね」
「うーん、半分本気、半分冗談ってとこかな。まぁ夏紀と優子には必要無いかもだけど、先々役に立つことがあるかもしれないしね」
「えぇ……どういうことですか」
 あすかには自分には見えていない何かがあるのだろうか。そう戸惑う夏紀の顔を見てあすかは満足そうな笑みを浮かべた。
「ま、そんなわけで北宇治を頼んだよ副部長さん」
 どうやらあすかの話はここで終わりのようだ。夏紀はもう少し色々と話を訊きたかったが、あすかの言葉にこれ以上の質問は受け付けない、そんな意思を感じたため引き下がることにした。
「……わかりました。謹んでお受けいたします」
 夏紀の返事にあすかは大きく頷き「部長発表までこのことはみんなには内緒だからね!」ともう一度念を押したあと踵を返し颯爽と校舎に消えていった。

「結局、庶務ノートとしてしか使わなかったよなぁ……」
 あっけなく終わってしまった関西大会の後、夏紀は優子と一緒に部の引き継ぎ準備のため放課後の教室に残っていた。
 副部長就任時にあすかから貰ったオレンジ色のノートには部の運営に関わることが記されている。夏紀が残っている白紙のページをめくり、そこにまだ書き記すことがあったであろう世界線に想いを馳せていると「逆になにに使うつもりだったのよ」と資料の整理をしている優子が訊ねてきた。
「えー?そりゃぁ愛のラブラブ交換ノートとか?」
「はぁ?」
 思わず手元の資料から顔を上げた優子のその目には、はっきりと「バカじゃないの」と書かれている。
「あすか先輩からこのノートをもらった時に言われたの」
「ふーん、あの人がねぇ」
「ちょっと、あすか先輩の言葉だってわかった途端に態度変えるのやめてくんない」
「いやいや、そりゃそうでしょ、あんたとあすか先輩とでは言葉の持つ意味が変わってくるから」
 一体、愛のラブラブ交換ノートの意味がどう変わるというのか。夏紀はそう訊いてみたかったが、そこを問いただしても仕方がないなと踏みとどまり話題を変えることにした。
「はいはい、そうですか。で、どうしますか次期幹部は」
「それねぇ……」
 そう小さく呟くと優子は腕を組んで考え込んだ。
「高坂は幹部に入れるべきだと思う」
「うん」
「あの子は部員でいるには良くも悪くも影響力があるから、幹部として責任を持たせた方がいいと思うのよね」
「良くも悪くも……ね」
 夏紀の含みのある返答に優子は一瞬むっとした表情をみせるが話を続ける。
「幹部としてならあの子ほど頼もしい子はいないと思う。演奏も抜群にうまいしリーダーシップもある。自分の意見を曲げないところもリーダーとしてならプラスに働くことが多いだろうし」
「確かにね」
 一年前のあすかの話を優子にしたらどう思うだろうか。その時の反応を想像して夏紀は思わず笑いそうになる。
「どういう表情なのよ、それは」
「いや、ごめん。なんでもないです」
「絶対碌でもないこと考えてるでしょ」
 訝しむ優子に夏紀は「まぁね」と答えると、「あんたねぇ」と呆れた声が返ってきた。
「まぁ高坂さんは確実に幹部だね。でも、彼女が幹部になったからといって暴走しないとは限らないんじゃない?部長になると大分練習とか厳しくしそうだよねぇ。演奏未経験の子とかオーディションメンバー入りがなかなかできない子らのことが心配かなぁ」
「そうなのよね。演奏力の差で部員に溝ができるのは避けたいわよね」
「調整役として黄前ちゃんにも幹部に入ってもらうとか?」
「高坂を止められるとしたら黄前しかいないか」
 「でもねぇ」と優子は続ける。
「黄前が高坂に同調しないとも限らないでしょ」
 夏紀は優子が香織先輩のオーディションのことを指しているのだと察した。その懸念はもっともだと夏紀は思ったが、久美子がああいった場面で見せる芯の強さもまた、彼女が幹部に向いている素質ではないかと考えていた。それに自身が一番近くで見てきた後輩である久美子に北宇治を任せたいという思いもあった。彼女が幹部になるにあたって、高坂とは違う形で支えになってくれそうな人物はいないか、そう考えた時に夏紀の頭に浮かんだのはトロンボーンの男子の顔だった。
「それじゃあ塚本はどう」
「塚本?」
 その名前を聞いた優子は驚いた表情を見せた。
「そう。高坂さんに黄前ちゃんに塚本。あの三人は同じ中学出身でしょ。それに吹部だったはずだし」
「よく知ってるわね。あぁ、あんた、そういえば塚本と塾同じだったんだっけ」
「まぁね。黄前ちゃんと塚本は幼馴染みたいだし。高坂さんに黄前ちゃんが同調しそうになっても塚本がいたらなんとかなるんじゃないかなって」
「うん、男子が幹部にいると案外バランスいいかもしれないわね」
 優子の反応からも夏紀の提案は受け入れてもらえそうな雰囲気だった。自分の出した話の方向で事を進められるように夏紀はそれとなく優子の背中を押す。
「あれ?ひょっとして結構いい感じなんじゃない?」
「悔しいけど認めるわ……」
「ふふーん、ようやく私の優秀さに気づきましたか」
「案を褒めただけで、あんたは褒めてないわよ……」
 思いの外あっさりと優子は夏紀の案を認めたが「うーん」と唸って続ける。
「問題はそれぞれの役職なのよね……」
 優子はシャープペンシルのノック部分で頬をトントンと突きながら考え込む。
「それだよねぇ……幹部三人となると新しい役職が必要になるよね」
 夏紀は椅子に背中を預け、椅子の前足を浮かせてコツコツと音を立てながら考え込む。「危ないわよ」と優子が呟くように注意する。「大丈夫」と手を振って夏紀は答える。しばらくの間、夏紀が立てる椅子の音だけが教室に響いた。沈黙を破ったのは優子だった。
「ねぇ、ドラムメジャーを役職にするとかはどう?」
「お、さすが部長!ナイスアイデア!」
 夏紀が身を乗り出すとガタンと大きな音を立てて椅子の前足が着地する。
「別にナイスってほどでもないと思うけど」
「それもそうですね」
「うるさい!なんですぐ否定するのよ!」
「まぁまぁ怒りなさんな」
「ほんとムカつくわね……」
 優子は「まぁいいわ」と話を戻す。
「ドラムメジャーを設けるなら高坂がいいんじゃないかしら。正直今の北宇治では、うううん、下手したら全国でもあいつに敵う相手はいないんじゃない」
「あんたがそこまで評価するなんてね……」
「なーに?もしかして嫉妬しちゃった?」
「はぁ?するわけないでしょ」
「はいはい、素直に認めればいいのに」
 夏紀は「誰が」と反論しかけたがくすくすと笑う優子の顔を見て言葉を飲み込んだ。
「まぁ、高坂さんは部長よりも演奏に特化したリーダーの方が良さそうだね」
「うん、新設のドラムメジャーは高坂で決まりね」
「そうなると部長は―」
 夏紀と優子は同じ名前を口にした。二人のいる教室に遠くから低音の柔らかな音色が聞こえてきた。