「もう誰もいないわよね〜」
「は〜い」
「あんたに聞いてないわよ」
いつからか音楽室を施錠する時に恒例となったやりとり。お互いに幹部になってから、何度この会話を繰り返してきたのだろうか。夏紀はふと、そんなことを考える。
「よっ」と声をあげて優子が入り口の扉を閉める。入部した頃からずっと立て付けが悪いままのその扉は、開け閉めにちょっとしたコツがいる。何度も開け閉めをしているはずなのに、いまだにぎこちないところがなんとも優子らしい。
夏至を過ぎたとはいえまだまだ日は長く、廊下は夕あかりに照らされている。春先までは鍵穴を探す優子のために、スマホの懐中電灯で手元を照らしていたことが、もう随分と前のように感じる。
優子は迷うことなく鍵を差し込む。鍵をひねるとコチリ、と小気味のいい音がした。今日の幹部のお仕事はこれにておしまい。夏紀は音楽室に背を向けて歩き出す。いつもならすぐに優子が追いついてくる――はずなのだが、後ろから聞こえてきたのは足音ではなく、ガサゴソとカバンの中身を探す音だった。
「ごめん、忘れ物」
そう言うと夏紀の返事を待たずして優子は踵を返す。音楽室の鍵を開け、上履きを脱ぎ捨て、パタパタと音を立てて中に駆け込んでいった。待っている間、夏紀は脱ぎ散らかされた優子の上履きを揃えて置き直す。「あったあった」部屋の奥で優子の声がする。
「ごめん、ごめん」
優子が入り口に姿を現し「ありがとう」と言いながら上履きを履く。
「お転婆なお嬢様に仕えると苦労いたしますわ」
「そんな嫌味ったらしいメイドを雇った覚えはないわよ」
「素直に感謝の言葉を受け取れば可愛いのにね」とぶつぶつ言いながら、優子はもう一度鍵を閉める。夏紀は優子が横に並ぶのを待って歩きはじめる。
昇降口を出ると空はほんの僅かに赤みがかっているだけで、夜の帳はもう下りきろうとしていた。校庭には夏紀と優子以外、もう誰の姿も見えない。人の気配もなくなり安心しきっているのだろうか、木々からは蝉の声が聞こえてくる。
蝉の声?夏紀はふと抱いた疑問を優子に投げかける。
「ねぇ、優子」
「なに?」
「蝉ってさ、夜に鳴いてたっけ」
「うーん?」
優子は少し間を置いてから答える。
「小さい頃は鳴いてなかった気がするわね」
「だよねぇ」
「あ、そういえばあすか先輩が言ってたわ」
「あすか先輩?」
優子とあすかがなぜ、蝉の話なんかをしたのだろうかと、つい訝しむような口調になる。
「一年の時、香織先輩と帰る時に、あすか先輩も一緒だった日があったの」
「あー……」
「なによ、その反応は」
ジトッとした目で優子は夏紀を見つめる。
「いや、なるほどなと思いまして」
「大して説明になってないじゃない」
まぁいいけど、と優子は続ける。
「なんでも地球温暖化とか照明の影響で、夜でも昼だと勘違いして鳴く蝉が増えたらしいわよ。『あぁ、昼も夜も求愛に全力を捧げる蝉よ!その声音のなんと美しいことか!』って言ってたわね」
演劇の役者よろしく、優子はあすかの言葉を身振り手振りを交えて再現する。
「ふーん……」
「ふーんって、あんたね」
訊いてきたのはあんたでしょうが、と優子は夏紀を小突こうとするが、夏紀はそれをひょい、とかわす。
「私はさ、夜も鳴くんだって気づいたのが、ついさっきなんだよね」
「それがなによ」
「いやぁ、優子は一年の頃から知ってたんだなぁって」
「知ってたも何も、蝉の鳴き声なんて、そんな大した話じゃないでしょうよ」
違う違う、と夏紀は小さく笑って首を横に振る。
「私が言いたいのは、あんたは一年の頃からこの時間まで残って練習してたんだなって」
そう言おうとした夏紀の目に映ったのは、未だに話が見えてこない疑問符でいっぱいの優子の顔だった。
それを見て、夏紀は急になんだか恥ずかしいような、癪なような、むず痒い気持ちに襲われた。思わず優子の顔から目を逸らす。
「やれやれ、この音の良さが分からないようでは、まだまだですね部長さん」
こういう時は茶化すに限る。三十六計茶化すが勝ちだ。
「なにそれ?あんた、暑さで頭、ふやけたんじゃないの」
ため息まじりに優子が突っこむ。
二人の頭上では相変わらず蝉たちの演奏が続いていた。
「は〜い」
「あんたに聞いてないわよ」
いつからか音楽室を施錠する時に恒例となったやりとり。お互いに幹部になってから、何度この会話を繰り返してきたのだろうか。夏紀はふと、そんなことを考える。
「よっ」と声をあげて優子が入り口の扉を閉める。入部した頃からずっと立て付けが悪いままのその扉は、開け閉めにちょっとしたコツがいる。何度も開け閉めをしているはずなのに、いまだにぎこちないところがなんとも優子らしい。
夏至を過ぎたとはいえまだまだ日は長く、廊下は夕あかりに照らされている。春先までは鍵穴を探す優子のために、スマホの懐中電灯で手元を照らしていたことが、もう随分と前のように感じる。
優子は迷うことなく鍵を差し込む。鍵をひねるとコチリ、と小気味のいい音がした。今日の幹部のお仕事はこれにておしまい。夏紀は音楽室に背を向けて歩き出す。いつもならすぐに優子が追いついてくる――はずなのだが、後ろから聞こえてきたのは足音ではなく、ガサゴソとカバンの中身を探す音だった。
「ごめん、忘れ物」
そう言うと夏紀の返事を待たずして優子は踵を返す。音楽室の鍵を開け、上履きを脱ぎ捨て、パタパタと音を立てて中に駆け込んでいった。待っている間、夏紀は脱ぎ散らかされた優子の上履きを揃えて置き直す。「あったあった」部屋の奥で優子の声がする。
「ごめん、ごめん」
優子が入り口に姿を現し「ありがとう」と言いながら上履きを履く。
「お転婆なお嬢様に仕えると苦労いたしますわ」
「そんな嫌味ったらしいメイドを雇った覚えはないわよ」
「素直に感謝の言葉を受け取れば可愛いのにね」とぶつぶつ言いながら、優子はもう一度鍵を閉める。夏紀は優子が横に並ぶのを待って歩きはじめる。
昇降口を出ると空はほんの僅かに赤みがかっているだけで、夜の帳はもう下りきろうとしていた。校庭には夏紀と優子以外、もう誰の姿も見えない。人の気配もなくなり安心しきっているのだろうか、木々からは蝉の声が聞こえてくる。
蝉の声?夏紀はふと抱いた疑問を優子に投げかける。
「ねぇ、優子」
「なに?」
「蝉ってさ、夜に鳴いてたっけ」
「うーん?」
優子は少し間を置いてから答える。
「小さい頃は鳴いてなかった気がするわね」
「だよねぇ」
「あ、そういえばあすか先輩が言ってたわ」
「あすか先輩?」
優子とあすかがなぜ、蝉の話なんかをしたのだろうかと、つい訝しむような口調になる。
「一年の時、香織先輩と帰る時に、あすか先輩も一緒だった日があったの」
「あー……」
「なによ、その反応は」
ジトッとした目で優子は夏紀を見つめる。
「いや、なるほどなと思いまして」
「大して説明になってないじゃない」
まぁいいけど、と優子は続ける。
「なんでも地球温暖化とか照明の影響で、夜でも昼だと勘違いして鳴く蝉が増えたらしいわよ。『あぁ、昼も夜も求愛に全力を捧げる蝉よ!その声音のなんと美しいことか!』って言ってたわね」
演劇の役者よろしく、優子はあすかの言葉を身振り手振りを交えて再現する。
「ふーん……」
「ふーんって、あんたね」
訊いてきたのはあんたでしょうが、と優子は夏紀を小突こうとするが、夏紀はそれをひょい、とかわす。
「私はさ、夜も鳴くんだって気づいたのが、ついさっきなんだよね」
「それがなによ」
「いやぁ、優子は一年の頃から知ってたんだなぁって」
「知ってたも何も、蝉の鳴き声なんて、そんな大した話じゃないでしょうよ」
違う違う、と夏紀は小さく笑って首を横に振る。
「私が言いたいのは、あんたは一年の頃からこの時間まで残って練習してたんだなって」
そう言おうとした夏紀の目に映ったのは、未だに話が見えてこない疑問符でいっぱいの優子の顔だった。
それを見て、夏紀は急になんだか恥ずかしいような、癪なような、むず痒い気持ちに襲われた。思わず優子の顔から目を逸らす。
「やれやれ、この音の良さが分からないようでは、まだまだですね部長さん」
こういう時は茶化すに限る。三十六計茶化すが勝ちだ。
「なにそれ?あんた、暑さで頭、ふやけたんじゃないの」
ため息まじりに優子が突っこむ。
二人の頭上では相変わらず蝉たちの演奏が続いていた。
あとがき
廊下の照明が落ちる時間まで残っていた、と言うことで……
あすか先輩は蝉の声に興味はあるのでしょうか