退部届
その三文字が大きく記載されている書類から久美子は顔を上げ、正面に座っている女子生徒を見つめた。窓を背にしている上に顔を伏せているため表情を読み取ることは難しいが、こちらの出方をじっと伺っている気配がある。
北宇治高校の職員室の一角に設けられた面談スペース。冷房が入っているとはいえ公立施設の設定温度では梅雨入り後の部屋のじっとりとした暑さを完全に追いやることはできず、二人のそばにある扇風機は生ぬるい風を運んでいた。放課後の騒がしい職員室の喧噪をかき分けるように外では遠雷の音が響いていた。
「とりあえず、理由を教えてもらってもいいかな」
久美子は退部届を二人の間にある机の上に置くと、なるべく平静を保ちながら、責めているような口調にはならないよう意識してそう問いかけた。少女はふぅ、と短く息を吐いた後に顔を上げると、しっかりと久美子の目を見て口を開いた。
「退部届に記載している理由ではだめでしょうか」
「うーん、確かに”勉学に専念するため”とは書いてあるんだけどね。本当は先生としてこんなこと言うのはだめなのかもしれないけれど、白銀さんの成績から言えば二年生の今の時期に勉強に専念しないといけない、ってこともないんじゃないかな」
「勉学を理由とした退部は認められない、そういうことでしょうか」
「いや、そんなことはないよ」
久美子は白銀に気圧されながらも話を続ける。
「ただ、あれほどの演奏技術を持った白銀さんが勉強を理由に辞めるっていうのが、なんとなく私の中で想像しにくくて」
「黄前先生に演奏を褒めていただけて嬉しいです。ありがとうございます」
そう言って白銀は頭を下げた。ただ、と顔を上げて続ける。
「それは先生が個人的に納得できるかどうかという問題で、退部届が受け入れられるかどうかは関係ないのではないでしょうか」
うっ、と言って久美子は言葉に詰まった。教員生活二年目に入ったとはいえ、生徒との対話はいまだ思うようにはできない。こうなったらもう正直な気持ちを伝えるしかないなと久美子は思った。
「そうだね。確かにその通りだよ。正直な話をするとね、白銀さんが退部を決意した理由は他にあるんじゃないのかな、って私は思っているの。もしも別に理由があって、その解決に私が何かできることがあったらな、ってそう思うんだ。」
大きな決断をするのに後悔してほしくないから、そう言って久美子は白銀に微笑みかけた。さすがに邪気のない顔に言い返すのは躊躇われたのか、あるいは観念したのか、白銀はしばらく久美子の顔を見つめた後、視線を落として呟いた。
「私、自分の演奏のせいで誰かが苦しむ姿を見たくないんです」
えっ、と久美子は固まってしまった。白銀は意を決したように顔を上げて今度ははっきりとした声で言葉を続けた。
「先生、退部が無理ならば、せめてオーディションを辞退させてもらえませんか」
二人の間には長い沈黙が流れた。雷が部屋の中を一瞬白く照らし机の上の白銀の影を色濃くした。「降ってきましたね」と衝立の奥から聞こえてきた他の先生の会話につられて久美子が外を見やると、大粒の雨がアスファルトを黒に染め上げていた。
成功体験の呪縛1.プロローグ
黄前久美子先生の物語
その1