やってしまった。白銀彼方が職員室の扉を閉めるのを見届けてから久美子は面談スペースで一人頭を抱え込んだ。退部届を目にしたときは動揺を隠せていたと思うが、白銀の口からその理由を、辞退の二文字を聞いた瞬間には平静を保てていた自信がなかった。何とかして白銀の退部を希望する理由を聞き出せないものかといくつか質問を投げかけたが、彼女の本心に近づけたという手ごたえは無かった。自分のわがままと押し切って退部と辞退の話は一旦保留にする約束を取り付けたものの、白銀の本心をすぐに引き出せるとは思えない。本心を引き出せたとしてもその問題を解決できるかの確証も久美子には無かった。
「何か悩み事ですか」
不意に声をかけられて久美子が顔をあげると滝昇がマグカップを手にして微笑んでいた。
「いえ、ちょっと生徒から相談を受けていまして」
「そうでしたか」
それは邪魔をしてしまいましたかね、と滝がその場を離れようとしたため久美子は思わず引き留めた。
「あの、少しお話してもよろしいでしょうか」
「ええ、もちろんです」
私がお付き合いできる話であれば、と言って滝は向かいの席に座ってもよいかと示した。久美子が首肯すると滝はマグカップを机の上に置き椅子を引いて腰かけた。久美子は滝を引き留めたものの白銀の相談の内容を直接話すことは躊躇われたため、少し間を置いた後に口を開いた。
「先生は、生徒の意思にどこまで教師が介入しても良いと思われていますか」
「介入、ですか」
はい、と久美子は頷く。難しい問題ですね、と滝は顎に手をあてた。
「その意思が本人のものである、ということが確かであるならば私はその意思を尊重します」
黄前先生はもう十分ご存じのことでしょうけど、と滝は微笑んだ。
「ですが、大きいとはいえ高校生は大人とはまだ言い切れません。ひとりの個として尊重することはもちろん大切なことですが、彼らはいまだ大人の加護のもとにあります。私達も教師である以上は彼らを守り正しい方向へ導く必要があると思います。もし、彼らの意思決定の根底にある動機が正しくないものであるならば、私たちはそれを正す義務があるのではないでしょうか」
「おっしゃるとおりだと思います」
でも、と久美子は続ける。
「何が正しくて、何が正しくないか、その判断を自分なんかがすることはとても傲慢なことなんじゃないかなと思うんです。それにそもそも、彼女達の意思決定の動機が分からないと、私はどうすればいいんだろうか、そう思うんです」
なるほど、と言って滝はしばらく考え込んだ。
「私も偉そうなことを言いましたがそれが全て完璧にできているとは思っていません。そもそも教師としての自覚なんてものも最近になってようやく、これがそうではないのか、と思い始めたようなものです」
「滝先生が、ですか」
「はい。ずっと前に黄前さん…失礼、黄前先生が生徒だった頃に理想とする人はどんな人か、と訊ねられたことがありましたね」
久美子は頷いた。
「あの時私は、正しい人でありたい、そう答えたと思います。あの時の考えは今も変わっていません。ですが、そうあることは難しい。ましてや、それを教えることとなると尚更です」
滝はそこで目を伏せると再び考え込んだ。久美子は静かに続きを待った。雨粒が窓ガラスをパチパチたたく音に合わせるように滝は机を指でコツコツと叩いていたが、しばらくすると指を止めて再び口を開いた。
「私の人との対話手段はそのほとんどが音楽でした。ですから、私の考えについても生徒の指導についても音楽を通して伝えることが一番の方法だと思ってこれまでやってきました。逆に言えば、音楽以外の方法で人に何かを伝えるということは不得手だったように思います」
「そうですね…」
久美子は思わずそう声に出してしまい、はたと口を抑えた。
「あ、すいません」
いえ、いいんですよ、と滝は微笑んだ。
「そこで否定しないところが黄前先生らしいなと思いまして」
「も、申し訳ありません」
「いえ、批判しているわけではありませんよ。私は黄前先生のその素直さと生徒一人ひとりに対してまっすぐに向き合う姿勢に助けられているんですよ。私は音楽という手段ならばなんとかできているとは思っているのですが、それ以外のことについてはどうも苦手でして。今日のお話ならばひょっとすると私なんかよりも松本先生のほうがきちんとした答えを教えて下さるかもしれませんね」
「とんでもないです。ありがとうございます」
久美子はそこで深々と頭を下げたが、黄前先生、と滝が話を続けたためすぐに顔を上げた。
「何に悩んでおられるのかははっきりとは分かりませんが、黄前先生は、黄前先生のやり方でやってみれば良いと私は思います。少なくとも私は黄前先生が生徒に対してとる行動が傲慢なものになるとは思いません」
恐縮です、と再び頭を下げかけた久美子に滝は続ける。
「ただ、私達が思っているよりも彼らの成長する速度はずっと早いです。彼らのことを導かねば、と思っていると逆に導かれることのが多いかもしれません」
そう言うと滝は久美子に微笑みかけた。
では音楽室へそろそろ向かいます。そういって立ち去る滝を見送ると久美子は自席に戻った。机上に置いたスマートフォンのメッセージアプリに通知が来ていたので確認すると、辞退の言葉を聞いて思い浮かんだ友人からの連絡だった。
「真由ちゃん、ひょっとして地獄耳なの?」
久美子はひとり呟いた。いつの間にか雨も弱まり雲の隙間からは夕焼け空が覗いていた。
成功体験の呪縛4.黄前久美子の苦悩
黄前久美子先生の物語
その4