やってしまった。職員室の扉を閉めた白銀彼方は大きくため息をついた。
良くない顔をされることは覚悟のうえで退部を申し出たつもりだったが、黄前先生の強張る顔を目の当たりにすると気が引けてしまった。彼方にとっては妥協案のつもりでお願いしたオーディション辞退の話も結局は受け入れてもらえなかった。彼女の反応からして、どうやら辞退の話のほうがいけなかったようだ、と彼方は感じていた。
辞退の申し出をするとしばらく先生は固まっていたが、雷の音で我に返ったようでその後は部活やユーフォの話をいろいろと彼方に訊ねてきた。そして最後に「白銀さんの意思は分かったよ。私はその意思が白銀さんのものであるならば尊重する。ただ、ここから先は私のわがままなんだけど」と前置きしたうえで「しばらく、私に時間をもらえないかな。だからこの退部届もオーディションの辞退も待ってほしい」そう言ってお願い、と頭を下げてきた。
彼方からすればお願いしているのはこちらのほうなわけで、教師に頭を下げられたことに驚いてしまい「いえ、そんな、先生に頭を下げてもらうことじゃないです」となし崩し的に話は保留になってしまった。
あの場ではつい同意してしまったが、時間が経つと黄前先生は自分が保留に同意せざるをえないよう計算の上で頭を下げたのではないのか、などと彼方は邪推してしまった。でも、思い返してもあれが建前から出る言動とはとても思えないし、普段の黄前先生をみていても本心なんだろうな、とその考えを彼方はすぐに打ち消した。
黄前先生は、吹奏楽部部員をはじめ多くの生徒達から親しまれている。その理由には自分たち生徒と年齢が近いことや北宇治吹奏楽部のOG、しかも全国大会金受賞時の部長であることも挙げられるが、一番大きな理由は彼女の生徒達一人ひとりに対してのきめ細かな指導と穏やかな物腰にあると彼方は思っている。もっとも、吹奏楽部員にとっては比較対象になるのが粘着イケメン悪魔と呼ばれる顧問の滝昇と時々フォローに入ってくる軍曹先生こと松本美知恵であるというのも原因の一つであるかもしれないが。
彼方自身もまた、黄前先生ならばすんなりと優しくこちらの願いを聞き入れてくれるのではないか、という後ろめたい、淡い期待をしていたことは否定できないため、自分のことを棚に上げて先生を責めていた自分のことを思い一人で自嘲的な笑みを漏らした。
退部や辞退の話を保留にされたことについては、一度の願いで聞き入れてもらえるともおもっていなかったため、彼方はそれほど落胆はしていなかった。それよりも、自分の発言で先生がひどく強張った顔をさせてしまったことに動揺していた。彼女は彼方が入学した年のクラスの副担任だったこともあり、他の吹奏楽部員より多く接してきたつもりだったが、そんな彼方でも初めて見る表情だった。
自分はこの表情をどこかで見た覚えがある。面談ブースで強張った黄前先生の顔を見つめながら、長い沈黙の間かなたはぼんやりと思っていた。いつ、どこだったかすぐには思い出せなかったが、その後に先生からユーフォを始めたきっかけを訊かれて思い出した。
彼方とユーフォニアムの出会いは小学生四年生のことだった。彼方の両親は福岡の生まれで幼馴染だった。父はいわゆる転勤族だったが、小学校の間くらいはせめて同じところに通わせたいという母の希望もあり、母の実家で祖母と母、彼方の三人で生活していた。父の実家には祖父母と伯母家族が住んでおり彼方とは歳の離れた従姉の遥がいたが、それぞれの実家が近いこともあってお互いが頻繁に行き来をするような家族ぐるみの付き合いをしていたため遥のことも実の姉のように親しくしていた。彼方は人見知りが激しい性格であったこともあり遥の存在はとても大きかった。
遥は吹奏楽部に所属していてユーフォニアムを演奏していた。彼女の家に遊びに行ったときにメンテナンスのためであろうか、楽器を持ち帰ってきているのを見つけると、彼方は彼女に演奏するようにねだった。遥はいつも断ることなく、「少しだけね」そう言って近くの河川敷まで彼女を連れて行くと吹いてくれた。遥が楽しそうに吹いている姿を見るのも、その曲を聴くのも彼方はとても好きだった。彼女が胸に抱えた金色の楽器だけでなく、演奏している彼女の姿もキラキラと輝いて見えた。彼女の家に遊びに行った時に玄関の上がり框に大きな楽器ケースが置いてあるのを目にするや否や彼女の部屋に一目散に駆け込んだのを今でも覚えている。
遥は吹奏楽で全国でも有名な清良女子高へ進学した。小学生の彼方にはそれがどれほど凄いことなのかは理解しきれてはいなかったものの、遥のユーフォをこれからも聴くことができるのだと思うと嬉しかった。伯母に演奏会があれば一緒に連れて行ってもらうよう頼み込んだ。
最初の演奏会で彼方は衝撃を受けたー遥ではなく、彼女の隣に座る銀色のユーフォニアム奏者の少女に。今まで聴いていた遥の演奏とは違う。決して過度に主張をしているわけではないのに、全体の中で確かな存在感を感じる演奏。何が遥と明確に違うのかその時の彼方には説明することはできなかったが、それでもなんとなくそれを言葉にすることは遥のことを傷つけてしまうような気がした。
同じ楽器を演奏していることもあってか、その少女は遥の家によく遊びに来るようになった。彼方は彼女にも遥と同じように可愛がって貰い、もう一人姉が増えたみたいで嬉しかった。
ある日、遥の家に遊びに行くと玄関に楽器ケースが二つ置いてあった。いつものように遥の部屋に駆け込んで二人に演奏をお願いすると二人は快く受け入れてくれた。遥だけじゃない、二人の演奏を間近で聴けることに彼方の胸は高鳴った。
いつもの河川敷で彼方のための演奏会がはじまった。聴きなれた遥の音は安心感もあり彼方はとても好きだったが、近くで聴く少女の演奏は彼方に最初の演奏と変わらない衝撃をもたらした。淀みのない繊細でいて優雅な音は大きなうねりとなって、彼方の全身を震わせた。
「どう、だったかな」マウスピースから口を離すと、少女は照れた様子で彼方に声をかけた。彼方は演奏に圧倒されて声を出すことも、拍手することさえも忘れていた。我に返った彼女は何か言わなければと焦って、思っていることをつい口にしてしまった。
「うん、すごいよ真由お姉ちゃん。楽器って、色が違うと音も違って聴こえるんだね」
それを聞いた瞬間に強張った遥の顔は、今日の黄前先生の顔とそっくりだった。
成功体験の呪縛3.白銀彼方の過去
黄前久美子先生の物語
その3